私は大学卒業以来、教員として働いてきている。教員という職を選んだ理由には、男女という性別による給与の差があまりないだろうということもあった。1980年代前後、女性で四年制大学に進学するのは、困難をともなったことをどれだけの人が覚えているだろうか。
中学の同級生の女ともだちは、そのほとんどが高等学校卒業で就職をした。進学するにしても短大を選ぶのが普通であった。短大であろうと四年制であろうと卒業後は、いわゆる腰かけで就職し、結婚と同時に退職するというような風潮があったと思う。それがほとんどの女性の道であるかのように刷り込まれていた世代である。
そんなときに四年制大学への進学を選んだ私には、「嫁のもらい手がなくなるよ」とか「女には学問はいらない」といった言葉が浴びせられることが多々あった。
なぜ、女性に生まれただけで大学にも自由に行くことができないのか。当時の私には上のような言葉が浴びせられるときに返すことばすら見つけることは出来なかった。
女性は男性のように生きることはできないということを嫌というほど骨身にしみさせられていたからだ。けれども心にはいつも違和感があった。そして、21世紀を迎えるころには、きっと男女は平等になっているだろうと希望をもっていたものである。
忘れられない侮辱的フレーズは他にもある。24、25歳の未婚女性をクリスマスケーキに例えるものだ。いわく、女は25歳を過ぎると嫁のもらい手がないというもので、ちょうど25日になったら誰もクリスマスケーキを買わないことにかけて女性を揶揄することばである。
たったこれだけのフレーズがどれほど多くの女性を不幸にしたのか、そんなことを言い始めた人は知らないだろう。まるで今から二百年前の英国のごとく、結婚することこそが幸せであるかのような幻想が当時はまかり通っていた。
私もそんなことばにあおられて急いで結婚したひとりである。結婚後も、教員として働きながら、家事もすべてひとりでこなした。その当時のパートーナーは、会社員であったが、なぜか家事はいっさい手伝ってくれなかった。ゆえに、私は病気にかかり死にかけた。過労から原因不明の発病となり生死をさまようことにまでなったのだ。
「男は外ではたらき、女は家庭をまもる」、いわゆる性別役割分担という考え方は、英国の産業革命とともに発した考え方だ。産業革命は、多数の工場での働き手を要した。人々はそれまでの農村において一家で働く形式を捨て、都市を目指した。そして、男は工場で朝早くから働き、疲れて家に帰る。
家では、そんな男たちを慰めるものとして女性は位置付けられた。そこでは、女性は男性に劣る性として認識されていた。女性たちを結婚へかりたて、家庭にしばるために「家庭の天使」ということばが生まれた。
この流れは戦後日本でも積極的に取り入れられ、私の通った大学でも「良妻賢母」なることばにより女子教育がされていたのだ。
自分の意思によって得たものでないものやことを通して、何らかの制約や押し付けが生じること、併せて、それらを常識とされることに疑問を呈したい。女性は家庭にしばられなくていいし、男性も工場や会社などにしばられることもない。
生きることにそのような縛りは必要ない。男性も女性にもみずからの力を存分に発揮できる場、機会を平等に与えてもらいたい、そのような社会をつくりたい。家事も労働も生きていくのには必要なものである。そのどちらも楽しみながら生きていきたい。