組合員の投稿

新型コロナをめぐる権力者たちの危機管理

2020年4月25日

 中国・武漢に端を発する新型コロナウィルス感染(による肺炎)の流行で、世界は混乱に陥りつつある。日本では、感染者第1号が出たという報道があってから1か月超が経ち、2月28日現在、患者数は200人を超えた。

 しかしこれは氷山のほんの一角で、潜在的患者数はすでに何万人、何十万人に達しているのではないかという指摘もある。感染の疑いがあってもろくに検査してもらえないからだ。

 技術的、物理的には十分可能であるはずなのに、なぜか保健所を通して検査を断られるという。今ここに至っても、政府は感染(罹患)に関して「発熱くらいなら自宅静養で何とかせよ」という無策ぶりなのだ。つまりこれは「重症化するまで検査しない」と言っているに等しく、無茶苦茶な話である。

 そうかと思えば、27日夜、今度は突如として、感染予防の観点から「高校までの学校を全国一斉に年度末まで休校にする」と言い出した。この急転は言わずもがな、国民の批判をかわし、自らの“リーダーシップ(指導力)”をアピールしたいという、安倍首相の強い利己的動機を反映したものだろう。

 さて、私の勤務する大学では、政府のそうした「静観→大胆策打ち出し」の流れとはちょうど逆の展開が起きている。

 本学の危機管理部門(会議)はいわゆる上層部メンバーを中心に構成されるが、今回、例の日本での感染者(しかも関西)確認を受けて臨時招集されるようになったらしい。“上層部”とは学長・副学長・各(学)部長らを指し、いわばこの大学の「政府」にあたる。

 なお、本来は学園全体からみて「地方自治体(首都・東京)」のはずだが、“上層部”のご当人方が一番、勘違いしておられる節があり、いつも勝手に暴走してしまう。しかも、完全なるダブルスタンダードで、オトモダチにはトップ御手ずから特例ルールを適用してしまうところが「安倍政権」そっくりだ。

 そんな我らが上層部の危機管理会議は今回、まず留学生たちの渡航とその家族の来訪に関する実態・計画調査に始まり、在学生たちの留学中止(渡航取り止め)もしくは延期、プライベート旅行による渡航の実態・計画調査とその自粛喚起・要請、そしてわれわれ教職員の海外出張禁止および旅行自粛要請、等々の“指示”を、本当の(日本)政府より、またどの他大より先んじて次々、打ち出していった。

 卒業式の全体式典中止の決定もいち早かったし、われわれの国内出張が全面禁止されたのも2月20日とかなり早かった(しかも出張禁止に関してはご丁寧に、言うことを聞かなければ「就業規則に基づき処分する」というお達し付き)。

 しかし実は、これらの“指示”が公式文書を通じた「業務命令」としてきちんと降りてきたのは最初だけで、じきに、単なる報道情報を焼き直しただけのメールや、指示(業務命令)なのか“つぶやき”なのか意図・意味不明のメール(危機管理会議メンバー間の内部メール)が転送されてくるようになった。転送主は、やはり危機管理会議のメンバーである我が学部長だ。

 曰く、「危機管理においてはね、情報の一元管理が基本のキなんですね」。偉そうに教えを垂れながら、休日、早朝・深夜に関係なく、どんどん転送してくる。感嘆符だらけの意味不明なメールを早朝6時台に送信するトップも、それを30分と置かずにわれわれに転送して見せる学部長も、いかにも興奮が抑えきれない様子だ。転送のほかにも、複数の部署から同内容のメールが立て続けに届く。そういう事態が数週間、続いた。

 一方で、学生への連絡は、電子掲示板があって一括で行えるにもかかわらず、ほとんど行われていないことがわかった。渡航調査を含め、学生への連絡は“ゼミ担任から個別にしておいて。よろしくね”といった気軽なノリで、教員に丸投げされて終わりだったのである。

 卒業する本人(4回生)たちに一部式典中止の(正式な)連絡さえ未だ行われていないのが、その決定から何週間も経った現状なのだった。つい先日、私はその事実を知って唖然とした。最近、急に「危機管理」がらみの連絡がなくなったな…とは思っていたが、そういうことだったのか、と。

 つまり、「打ち出す策がどんどん大胆になる、と同時に、それらをアピールするメールもどんどん増加、過激に(自身の“指導力”を実感/アピールできることへの興奮や陶酔感)→正式な連絡はしない、見届けない(正確な情報伝達、その後のクレーム対応などの責任は徹底回避)」ということなのだろう。また単に、そろそろ飽きてきた面もあるような気がする。

 日本政府にしても本学上層部にしても、いわば「過活性(興奮)期と不活性(弛緩)期」のサイクルは異なるかもしれないが、要するに“指導力をアピールしたい”というきわめて利己的な動機にしたがって行動していることはよくわかった。

 最近の権力者、権威主義者たちは「危機管理」という言葉が大好きなように私には思えるが、それは彼らにとって危機事態が“自らの指導力をアピールする絶好の機会”とさえ映るからなのだろう(無自覚なのかもしれないが、少なくとも本学の上層部面々の言動は、まるで我を忘れたかのように興奮してみえた)。しかし同時に、事態のコントロール失敗によって、彼らは一気にその権力の座から転落しかねない。危機事態はそういうリスクを同時にはらんでもいるのだ。

 たまたま打った策が一時的に成功の波に乗っているときはいいが、何かの拍子にふと我に返ったとたん、それまでの興奮が強ければ強いほど、今度は急激に不安に陥って、彼らは尻込みしたり、逃げ出したりするのかもしれない。

 それで批判が高まってくると、また大胆な策を打ってみる・・・。理屈からして、このサイクル(ループ)がいったん動きだすと、事態はあらぬ方向へ、そしてとにかく悪化の一途をたどることになるだろう。一見、矛盾してもみえる権力者たちの極端な「危機管理(施策)」上の急変(大胆、強気⇔弱腰、雲隠れ)は、このような「接近-回避」のコンフリクトに動機づけられている。そういうふうに捉えれば、理解可能だ。

 


 

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