私は現在の会社で約7年前から営業職として勤務しています。
よくある話ですが、職場は2代目オーナー社長が支配するワンマン体質で、まわりの社員も常に顔色を窺って、隷属することを求められるような雰囲気です。
そんな折、ちょっとした労災事故がきっかけで会社側と軋轢が生じパワハラを約1年前から受け続け、うつ病を発症し、現在も通院・治療を行いながら、弁護士さんを立て、「営業職への復帰」「被った損害の賠償」、「加害者の処罰」、再発防止措置を求めて訴訟外で交渉中です。
パワハラ内容はおおむね以下のようなものです。
① 「お前なんかやめてしまえ」や自己都合での退職届を書けという複数回にわたる暴言(退職強要)
② 自己都合退職に応じないことを動機とする仕事の取り上げ(一切の営業活動の禁止)
③ 全体朝礼で「即刻営業業務を禁止とせざるを得ないような多大な迷惑と損害を顧客に与えた為(事実無根です)、営業担当としてふさわしくない」等の名誉毀損発言
④ 業務用PCの没収(社内コミュニケ―ションからの切り離し)
⑤ 全社員中一人だけ通勤交通費(通勤手当)を後払いにするとの嫌がらせ
⑥ 1人だけ、次の日の行う業務(実際は何もありませんが)を会社に明示して、会社の許可を取れのとの嫌がらせ命令
⑦ 賃金規定・就業規則をみせない 等
今、幸せいっぱいですというと嘘になりますが、会社や相手方弁護士との一連のやりとりや職場での経験を通して良かったこと自分なりに学んだこと、気付いたことを書かせて頂こうと思います。
(1)自分自身の幼稚な認知バイアスに気づくことができた
紛争の渦中いるとどうしても、ついつい感情的になってしまいます。それは「自分は正しい主張をしているのだから負けるはずがない」「相手方は嘘ばかりついて悪いやつだから、いつか天罰が下るはずだ」とか「善良な自分は相手を裁く立場にいるはずだ」とか・・・・(当初、実際私が思っていたことです)
これらの感情はある意味人間としては自然なことなのでしょうが、時間が経過するにつれ「自分の思う正しさ」のようなものは、特に「法律などのルールのある手続」においては絶対的な意味を持たなくて、自分の要求を実現するためには、この感情エネルギーを別の力に変換して闘わないといといけないのかもしれないと考えるようになりました。
今さらですが、「人生は理不尽なことだらけで、思い通りにいかないことが当たり前であること。いかに粉骨砕身の努力をしても報われないことがあること、いかに品行方正な人生を送っても罪を被ることがあり、いかに悪らつな人生を送っても称讃され、賛美されることがあること。そして社会に出て仕事をするということは、これらすべてをいったん受け入れて、その中でもがき、ため息をつきながら闘い続けるいうこと・・・・」
だからこそ懸命に働く労働者の姿は美しく、尊いのかもしれないですね。
(2)パワハラと闘う上で大事なスキルについて
紛争が始まって以来、自分なりに労働関連法規や判例について、勉強を始めました。
その中で感じたことは、誤解を恐れずに言いますが、法律知識と同等か、あるいはそれ以上に重要なのが「事実認定」のスキルなのかもしれません。つまり証拠からある事実を認定していくことであり、最終的にはある事実を「事実である」と第3者に認めさせることにつながります。
「事実は事実に決まっているだろう」と思うかもしれませんが、現実はそれほど単純なものではないようです。
例えばお金を借りたら返さなければなりませんし、パワハラで損害を与えたならその損害を賠償しなければなりませんし、業務命令権を濫用したとなれば、その業務命令は無効となります。
いずれも法律で決まっていることですから、それが事実となればあとは法律に従って処理されるだけのことですが、その法律で処理される前の段階の「事実認定」の部分というのが実にやっかいです。
多くの紛争においては双方が自分に有利になるように、それぞれの立場から主張を繰り広げます。
一方が「パワハラはあった」と言っても、もう一方は「業務上の合理性のある命令であり、そこには不当な動機・目的も何もなく、何の損害も生じていない」等と主張が異なり、お互いの言い分が食い違うからこそ紛争となるわけです。
検察官であれば捜査権がありますから、相手が嘘をついていると思えば、国家権力を用いてそれを暴くために証拠となる材料を豊富に集めることもできますが、こちらはそうはいきません。言うなれば「素手」で相手方のうそや主張に立ち向かわなければならないのです。
(3)「証拠がなければ事実はない」・真実の証明に「善」か「悪」かは関係ない
第3者から見れば「何か事実があるのならば、その証拠がある可能性が高いだろう」と考えるのが普通で、不幸にして証拠がないこともあることもあるのでしょうが、だからと言って証拠なしに事実を認定するということはなかなか難しい。
逆に「ないことを証明する」というのは「悪魔の証明」といわれるぐらい不可能に近いことなので、裁判においても「不存在の証明」は通常求められていないようです。
そのことを肝に銘じて今後の闘いに向けて証拠集めや主要事実の存在を推認させる間接事実の積み上げに全力を尽くしたいと考えています。
加えて、前記の認知バイアスの件と一部重複しますが、会社はこんなひどいことをして、パワハラに加担した者は悪人だからその悪事を声を大にして主張したいという気持ちは痛いほどわかりますし、当然のことですが、問題解決に至る制度の中では、請求の基礎となる事実の有無についてだけ争われます。
例えば「本当にパワハラや不当な目的・安全配慮義務違反はあったのか」「そのことが原因で本当に損害が生じたのか」というような事実関係であって、どちらか一方が相手側について「あいつらは悪人だ!」と主張したところで何も変わりません。例えば、どんな善人であっても借りたお金は返さなければなりませんし、逆にどんな悪人であっても借りてもいないお金を返さなければならない理由はありません。
もちろん相手方の「悪性」を主張することが必要なケースもあるのでしょうが、あまりやりすぎると、「肝心の争点について証拠がないので悪性の主張でお茶を濁しているのではないか」「法律上の正当な理由のないただの怨恨なのではないか」「真実は別にあるのではないか」と見られてしまって逆に不利になるケースもあるような気もします。
相手のことを「悪いやつだ」と罵るよりも、相手方の不法行為を証明する証拠を揃える方が問題解決の為には、はるかに重要なのかもしれません。
(4)一連の紛争を通じてより対人感受性が高められた(気がする)
現在、うつ病を発症しており、通院しながら向精神薬による治療と(認知)行動療法(日記をつけたり、散歩したり等)を行いながら寛解をめざしています。
社会に出てからずっと営業職でしたので、対人関係において相手方の気持ちや立場を理解して良好なコミュニケーションを築くスキルは最低限必要とされることは理解していたのですが、自分自身が初めてうつ病になったことで、同じ病気で苦しむ人々の実際に経験しないと絶対にわからない本当の苦しさ、まだ社会に残るうつ病に対する偏見みたいなものが理屈ではなく、実感として理解することが出来たような気がします。
治療の過程において気付いた大切な考え方・・・・・「どうしてこんな状況になったのだろう」とか「何が悪かったんだろう」とか、ひたすら原因-結果の連鎖ばかりを探そうとする態度は、ややもすると目を過去にのみ向けさせ、そこに存在する悪を見つけて攻撃したり、後悔の念を強めたりするだけでそこから前進する力を弱めることが多い一方、自分に起こった出来事からその意味を探ろうとする態度は、未来へ目を向け、そこからどのように立ち上がってゆくかという建設的な考えに結びつきやすいような気がします。
(5)最後に
今後もまだまだ闘いは続いていきます。ですが、本件において私は一歩も退きませんし、決して黙りません。「自身の労働者としての誇り」を守るために。
自分が傷つく覚悟、いかなる手段も行使する覚悟(法律の範囲内で)、たとえそれが己の身を切る手段であっても躊躇はしません。相手のあることとは言え、闘うからには絶対に勝ちたいと思います。
雨の後には美しい虹が出ることを信じて・・・・・
本投稿が読んで下さった皆様のお役に少しでも立てれば、これ以上の喜びはありません。
最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました。