私の亡父の名前は、穐敬という。こう書いてアキタカと呼ぶ。のぎ偏にかめと書いて”アキ“と読む。演劇や歌舞伎がお好きな方ならピンとこられるかもしれない。
この字が使われているからだ。千穐楽のシュウ、つまり秋の旧字体である。ところで、亡父は一月生まれだ。なぜ、一月生まれなのにアキタカと名付けられたのか、子どもの頃から疑問だった。
亡父は祖父母にとっては五番目の男の子である。亡父は十一人きょうだいの第八子にあたる。戦前はどの家も子だくさんだった。そのことを考えると、何となくこの穐の字をつけた意味がわかってきた。
祖父母は父の誕生で子どもは終わりにしたかったのではなかろうか。だから一月生まれにもかかわらず、千穐楽からこの穐の字を使って名付けたのだろう。そう考えると合点がいく。しかし、祖父母の願いはむなしく(と言っていいのかどうかはかすかな疑問はあるが)、五男坊誕生後も三人もの子宝に恵まれている。
全員女の子である。私からみると、これら三人の叔母たちの名前にも祖父母の願いが込められていそうな名前がつけられているのだ。
「産めよ、増やせよ」の時代、祖母は十一名もの子を産んだ。産むとすぐに妊娠、出産を繰り返したことになる。十分な栄養も休養もとれない時代、そのためか、祖母は最後の子どもの出産後すぐに亡くなってしまった。
学校へ上がるかどうかの年齢に達していた亡父すらその母の姿はうっすらとしか記憶していなかった。ましてや亡父の後に生まれた三人の叔母たちは、祖母のおもかげすら覚えていないと語っていた。
そんな祖父母の子どもたちの内、長男、次男は戦死した。亡父のすぐ上の姉にあたる人は戦時中結核で亡くなった。加えて戦死した次男のお嫁さんは、あの夏、里帰りをしてからとうとう嫁ぎ先である祖父母の家には帰ってこなかった。いや正確に言うと帰ってこられなかった。その里というのは広島だったから・・・。
亡父が存命中は戦争の話を聞くことが出来た。今年九十二歳になる母からも戦争の話を聞くことが出来る。「本当にものが無かった。」、「学校帰りの田んぼ道を三つ違いの姉と手をつなぎ歩いているとき、機銃掃射にあったことがある」
その時は「自分は死んだ」と思ったそうで、どれくらい経ったか顔をあげてみると前方に姉が横たわっている。駆け寄ると、起き出したそうで、二人でそのまましりもちをついて呆然としていたらしい。
8月はこれらの話を思い出す。戦争がなかったら、私にはもっとたくさんの従兄弟たちがいたことだろう。(一組合員)